本物の霊能者さんに出会って③~他人にどう思われても

スピリチュアルな話

シリーズ「本物の霊能者さんに出会って」の③です。

今回は、私の過去生のお話です。晶子さんは、今生に影響を与えているだろうと思われるものが一番はっきりと見えるとのことで、次のような話をしてくださいました。

私は、どこかの国のカトリックの修道女をしていたようです。年齢の異なる沢山の子どもたちに囲まれて生活していました。子どもたちはみな孤児だったようです。私は、彼らをきちんと整列させては食堂に連れて行ったり、食料を確保するために畑を耕したり、忙しく働いていたようです。この孤児たちを養子縁組させることが私たち修道女の役目の一つでした。

その子どもたちの中に、一人やんちゃな男の子がいました。私や周囲の人たちを蹴ったり殴ったりしていたようです。また、修道院の世界は、上下関係が厳しく、私は年輩の修道院長の言うことに従わなければならない環境にいたようです。体罰が行われていて、私は子どもたちのお尻を鞭で叩くこともあり、規則に従ってそのようなことをしなければならないこともとても嫌だったようです。

そして、この男の子の養子縁組がなかなかうまくいきませんでした。大きくなってからも暴力行為はおさまりません。私は、どうやってこの子を大人にさせていこうかと心配しながら、修道院で亡くなり、埋葬されたとのことでした。

もっと私はできたのに、なぜやらなかったのか・・・

もっと人を幸せにできたのに、なぜ私は行動しなかったのか・・・

他人にどう思われようとやりたいことをやればよかった・・・

日々に忙殺され、目の前のことに振り回されて生きたくなかった・・・

これが亡くなった時の私の後悔だったようです。

実は、晶子さんの口から「やんちゃな男の子」という言葉が出てきたとき、私は幼稚園から中学校まで一緒だったY君のことを思い出していました。

Y君と同じクラスだったのは、確か幼稚園の時と、小学校1、2年生の頃だったと思います。やんちゃ、というよりもとても乱暴な子で、授業中も席にじっと座っていることができず、誰に対しても飛び蹴りを仕掛けてくるような男の子でした。昭和の時代には「発達障害」という概念そのものがなく、Y君は暴れるたびにいつも担任教師から体罰を受けていました。TVなどで発達障害の話題がでるたびに、Y君のことを思い出し、理解の進んだ現在であれば、Y君は体罰を受けなくて済んだのになぁ、と思ったものです。

そして、そのY君ですが、急逝されたお父様の仕事を引き継いで、20代の若さで神主さんになられました。しかも、その神社は私の実家から500メートルも離れておらず、毎年、初詣をする神社でありました。「あんなに暴れん坊だった彼が神主さん!」と最初は驚いたものです。ただその後、宮司さんとして、地元でご活躍されていることを知るたびに、子どもの頃の彼は、「目に視えない世界」にたくさんの意識が向いていたのだろうなぁと思いました。物的感覚として、椅子や机に縛られるのが嫌だったのかなぁと思います。

それはひいては、過去生の私が修道女時代に悩みの種となった男の子にも通じるところがあると思うのです。その男の子は、好きなことをやろうとしていただけだったのに、西洋合理主義的な修道院の規則に無理やりはめようとしたから、暴れただけだったのではないか、と思うのです。修道院というところは、精神(視えない)領域を扱う宗教の世界にもかかわらず、規則、規則、と現実世界の規則に囚われていた過去生の私。修道院長に逆らえなかった過去生の私。「他人からどう思われてもやりたいことをする」というのが今生のテーマだというのは、深くうなづけるところです。

「他人からどう思われても」という殻を実際に私が破るのには、様々な経験を必要とし、時間がかかりました。以前のブログに書いたダシャー(宇宙エネルギー)が変化したお陰です。このタイミングもあらかじめ宇宙でプログラミングしてきたのでしょうね。

2018年4月に大運気が土星期から水星期へと変化しました。古代インド占星術で私の支配星(ラグナの支配星)は、水星。それが10室魚座で減衰しています。減衰した水星はスピリチュアル・神秘性に関心を持ちます(仕事にしたりします)。ちなみに、土星が9室にあり、木星がスピリチュアルな配置にあると、40代以降、スピリチュアルな道に進むようです。

こうして、自分の本当にやりたいことをやっていると、「他人」という視線(軸)で考えること自体がなくなってしまったなぁ、と思います。

もし、「他人軸」から生まれる考え(第三者からこう思われるのではないか?という恐れ)で悩まされているとしたら、それは本当に自分がやりたいことではなく、幼い頃から保護者(親や学校の先生など)に植え付けられた価値観に「無意識に」従って、選択した学校だったり、職業だったり、会社や組織だったりするのかなぁ、と思います。

本当は、親は子どもから学ぶことになっているのに、この世は逆になっているのです。「はじめに」に掲載したバージニア大学で過去生を研究していらっしゃる大門正幸先生の言葉をここに再び引用させていただきますね。

「日本をはじめとした先進諸国では、出産を子どもの誕生とみなし、親が自分の子どもを所有物のように自分の色に染めていくが、生まれ変わりを信じている北米先住民族の子育てはこれと真逆で、生まれてくる前に忘れてしまった過去生の記憶を思い出させることに、重点が置かれている」

「子どもは既に様々な経験を積み学んできた立派な人格であり、親の務めはその学びを思い出させることだという思想が根底にある」

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